皆さんイカがお過ごしでしょうか?のぶです。
今回は真田丸の人気に乗っかってベタな場所、三光神社に行ってきました。
真田丸=真田の抜け穴ではない?
鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。かつては大坂城の出城「真田丸」が置かれ、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている。境内には黒田屏風に描かれた真田信繁を元にした像がある。千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁がつくったものではなく、真田丸を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている
ただ、抜け穴を見ることは出来ますし戦国時代の名残りを何となく感じれます。
結構ヤブ蚊が多かった
抜け穴の周りの石造りが凄い |
これはたぶん雰囲気作りだろうなw | |
以前行った安居神社の像とは違い勇ましい像 |
抜け穴か、攻められた穴かわからない |
「真田」か「眞田」か迷ったけど、眞田に神主さんが決めたそうです。 |
茶臼山、安居神社、記事にしてないが堀越神社と真田関係でいった場所の中では一番人が多かった気がする。とは言っても他の観光名所に比べるとまだまだ少ない。
頑張ってにぎやかになってほしい。
観光名所らしく売店があった
上記の場所にはなかった売店が2店舗あった。
そのうちの1店は、真田グッズを売っていた。ここの店の人がBGMを流していた。やっぱ商売人と神社の人は、考え方が違うんだなーと思いました。
安居神社、堀越神社では、真田グッズを売ってないんですよね。売店も出てなかった。神社の人は、神社で儲けるという発想がないんでしょう。(16年5月現在)
個人的に、神社は今後氏子とか少なくなっていきので、神社の歴史を売りだして行って自分でお金を稼いで神社を守っていく必要があると思います。
別の真田関係の神社では、真田グッズがなくて すごくさみしかったんですよね。やはり観光地では 思い出の品が欲しいですよね。扇子などを買いました 大河ドラマの真田丸ミュージックが流れてたので、個人的におおーとなったw どうも神社の人が鳴らしてるのではなく、売店の人が音楽流してたようです。 |
三光神社で祭られているもの
仁徳天皇社
餌差町円珠庵に仁徳天皇の社あり当時西の方地形低く真田山に遷し奉る。
浪速の地を皇都(高津宮)と定められ、大阪隆昌の基を築かれた仁徳天皇。
人家の炊煙の乏しいのを見られて人民の窮乏を察し直ちに諸税を止めて庶民を救済されたことで有名。あと日本最大のお墓である堺市にある仁徳陵古墳が有名。色々有名だな。
この高津宮がどこにあったかが、未だにはっきりしない。いまんとこ、大阪城から南に5分ほどのとこにある難波離宮跡が最有力らしい。
大阪では難波神社が仁徳天皇を祭神として祭っているのが有名。
武内宿弥社
武内宿弥の末裔たる武川氏が三光宮の創建以後神職として奉仕し長寿の神として祭る。宿弥は景行、成務、仲衷、応神仁徳の五朝に歴任し二百四十四年も官に在り我が国最初の大臣となり日本で一番長寿された神で七福神の寿老神として祭られ戦前は浪速七福神巡りのバスを運転した程です。
武内宿禰さん(たけしうちのすくね)。影行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇に仕えたと言う伝説の人、また最初の大臣。お墓もなくどうやって無くなったか不明らしい。なので亡くなったのは260歳だとか360歳だと色々説がある。そもそも年齢の桁が違うとこから考えるべきだと思うw
長寿の人なので七福神の長寿の神様、寿老人(じゅろうじん)と祭られてます。
旗にも書いてあるが大阪七福神巡りのひとつでもある
興味がある方は、他の場所も巡るのも良いだろう
大阪七福神巡り
野見宿弥社
相撲の神様である野見宿禰(のみのすくね)さんが祭られている。安政六年(1859年、ちなみにペリー来航が1853年だから幕末だな)にこの神社に来たらしい。
この野見宿禰さんは、垂仁天皇時代に当麻蹴速(たいまのけはや)さんと相撲をとり、当麻蹴速さんに勝ったらしいですね。この二人は相撲の神様と言われています。
あとこの野見宿禰さんは、当時はまだ偉い人が死んだ時の殉死が行われてたので、埴輪を埋めることで殉死したことにしようと言った人でもあります。偉い人ですね。
主守稲荷社
加賀宰相候の陣屋が此辺にあり宰相山(三光神社のある丘の名前)と言う此丘は狐の穴が多く本社の側に稲荷社を祭る(五穀をはじめすべての食物を司る神)
恐らく利家とまつで有名な加賀前田家の屋敷があったと、その前田家の前田利常(前田宰相)の陣が大阪冬の陣でこの辺りにあったんじゃないかなーってことですね。主守って何の意味かかわらん。
末社に関しては、場所がハッキリしてないのでここら辺かなーという感じで社にお参りしました
片柱の鳥居
遠く生駒・金剛の連山を見晴るかす景勝のこの地に永くその由緒ある三光神社の御門として誇っていた大鳥居もすぐる第二次世界大戦の戦火を被りその片柱のみをとどめた。戦後この鳥居の復興に際して、あの悲惨な戦争を二度と繰り返すことのないよう悠久の平和と国家の安泰を祈願して、この片柱を後世に残すこととした。
これは最初どこかな?と思いました。説明があるのですが、看板などがあるわけじゃない
真田丸ビールを売っていた、玉造商店街のおばさまからこれです。と教えていただけました。
そこで教えてもらったのが、大東亜戦争でここが激しく攻められた場所であると言うこと、その被害はこの神社でもひどかったそうです。その名残が「片柱の鳥居」と本殿前の「水道管」とのこと。
写真手前の棒が水道管だったそうです。 また本殿もこの水道管があった場所まであり、昔の本殿の大きさを残すものに なってます |
本殿で最後お参りして、あとにしました。
NHK大河ドラマがなぜ「真田丸」になったのか?
売店のおばさまと話してたら、なぜドラマのタイトルが、真田幸村ではなく、真田丸になったのかを教えてくれました。
大阪市は橋下徹前市長が居た時代に、区長の権限を副市長以上に格上げし、民間人からも区長になれるようにしました。その時注目された方の中に真田丸のある天王寺区区長に水谷氏が就任します。
この方の特徴は若さと元NHKということでしょうね。確か29ぐらいで区長なられました。
普通大阪市の区長は市役所内で課長みたいな年功序列的なもので、なるので30の若造でなる人はいないです。また、選挙で選ぶとしても30前の人がなることは中々想像しにくいです。
で、この若い天王寺区長さんがNHKとの交渉で、真田幸村ではなく、真田丸にしてほしいとお話をしたそうです。
真田幸村にすると天王寺の真田丸はクローズアップされず、下手すると大阪すら出てこない可能性があります。そこでタイトルを真田丸にして、ドラマの中心に大阪冬の陣、夏の陣を持ってくるようにするようにしたみたいですね。
NHKがこの話認めることはないでしょうけど、真田幸村というタイトルより、目新しい真田丸と言う名前にひかれたのはあったんじゃないかなーと思います。
結果的に、ドラマの視聴率は高く、大阪市には観光客が来るようになったのでWin-Winな関係になって良かったんじゃないかなーと思います。
水谷区長は、民間(元NHK)出身だからこそ出来たことだと思います。しかしながら、橋下前市長が辞めちゃったので、普通の市長の下では自分は仕事が出来ないと言うことで辞めるらしいです。ただ、個人的にはこのエピソード聞いて辞めずにドンドン大阪、天王寺に埋もれているものをアピールしてほしいと思いました。
戦国BASARA 真田幸村伝
大阪のゲームメーカーCAPCON(逆転裁判やバイオハザードなどが有名)の人気シリーズ戦国BASARAで真田幸村にスポットあてたゲーム。興味はあるが、今まで出てきてた女性武将が出てこないらしいorz
史実に忠実と言うことで興味はあるが、おもしろいのかな?
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